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秀吉はなぜ家康に250万石を与えたのか?関東転封は最大の失策だった?【徳川家康】#徳川家康 #豊臣秀吉 #歴史解説 #戦国時代 #日本史

地図とお金で読む戦国75,378回視聴投稿日: 2026/11/05
1598年、豊臣秀吉が亡くなったとき、五大老のなかで徳川家康の領地は約250万石。毛利・上杉の約120万石の2倍以上でした。 その領地のほとんどは、8年前に秀吉自身が与えた関東です。秀吉は、自分の死後に一番危ない相手を、自分の手で大きくしてしまったのか。 「左遷だった」「東の守り役だった」「結果として家康を強くしてしまった」の3つの仮説と、「関東という場所は1600年の家康に有利だったのか」の検証から、関東転封を考えます。 ■ 目次 0:00 序章 1:09 ① 1590年、何が起きたのか 4:58 ② 仮説A「左遷だった」 7:19 ③ 仮説B「東の守り役だった」 9:48 ④ 関東は家康の何を変えたのか 11:28 ⑤ 仮説C「結果として家康を強くした」 16:07 ⑥ 検証:関東は1600年に有利だったか 18:26 結論 ■ 石高の目安(おおよそ) ・家康の家臣への配分(1590年):井伊直政 上野箕輪12万石/本多忠勝 上総大多喜10万石/榊原康政 上野館林10万石/大久保忠世 相模小田原4万5千石 ・五大老(1598年ごろ):徳川家康 約250万石(256万石とする資料も)/毛利輝元 約120万石(112万石とする資料も)/上杉景勝 約120万石/前田利家 約80万石(利家・利長父子あわせて)/宇喜多秀家 約57万石 ・家康の旧領(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃):約150万石とされる(後からの推定。約100万〜120万石とする見方もある) ・家康の関東領:約250万石(関東の分だけで約240万石、255万石とする資料もある) ・井伊直政(上野箕輪)12万石/本多忠勝(上総大多喜)10万石/榊原康政(上野館林)10万石 ・堀尾吉晴(遠江浜松)12万石/山内一豊(遠江掛川)5万石/田中吉政(三河岡崎)約5万石 ・蒲生氏郷(会津)42万石(のち92万石) ■ 諸説あり・補足 ・旧領の150万石は当時の帳簿の数字ではなく、後から見積もった数字です。増えた幅ははっきりしません。 ・勢力範囲は、現在の市町村をもとにした国単位の概略です。信濃の徳川方には、家康に従っていた信濃の領主(小笠原・木曽など)を含めています。 ・当時の利根川の流れ、日比谷入江の海岸線、関東の低い土地の範囲は、現在の標高データや後世の資料をもとにした模式図です。 ・小牧・長久手、山中城攻めの部隊の配置はイメージです。豊臣軍の兵力は約21万(22万・25万とする資料もあります)。 ・「関東の連れ小便」は後の時代の軍記に残る逸話で、本当にあったかは分かりません。 ・江戸を本拠にしたのは秀吉の指示だったという話もありますが、はっきりしません。 ・1590年の上水(小石川上水)の話は伝承です。小名木川は家康の入府後まもなく開かれたとされます。日比谷入江の埋め立てや城の大工事は後年、利根川を東へ変える工事は1594年に始まり1654年に完成しました(家康の死は1616年)。 ・秀吉が家康を警戒して東海道に家臣を置いた、という狙いは史料に明記されているわけではありません。井伊・榊原・本多の配置の狙いも、地図から読める推測です。 ・東海道の城主たちが城を家康に明け渡したことは「とされる」話として扱っています(小山評定の実態には議論があります)。 ・1591年の東北の反乱は、南部家の一族・九戸政実の乱です。 ・大名どうしの勝手な縁組の禁止は、1595年の「御掟」によります。 ・秀吉の死後の家康の行動(大坂城西の丸への入城、起請文の交換、森忠政の移封、大名の妻子の帰国の許可など)は、1600年7月17日に三成方が出した「内府ちがひの条々」でも違反として挙げられています。ただし、これは家康と敵対する側の告発で、すべてが秀吉の遺言や政権の法令に背いていたとは言い切れません。 ・前田利長・浅野長政・大野治長らの家康暗殺計画の疑いは、実態がはっきりしません。 ・北条方の兵力(約5万)は、小田原城に籠もった兵としてよく挙げられる数字で、資料により幅があります。小田原城の包囲は3か月あまり(「包囲百余日」とも)。 ・江戸を本拠にしたのは秀吉の指示によるとされます。 ・1600年、家康は三成の挙兵を知って江戸へ戻り、約1か月とどまったとされます。結城秀康(家康の次男。1584年に秀吉の養子となり、のち結城家を継ぐ)は宇都宮で上杉に備えました。秀忠は中山道を進み、上田城の真田氏に手間取って関ヶ原に遅れました。 ・「秀吉の狙い」4つは、いずれも史料に明記されたものではなく、よく挙げられる見方です。 ・利根川を東へ変える工事は1594年に始まり、1654年に完成しました(家康の死は1616年)。 ・北条が秀吉に従うのを嫌った理由(名門の誇り)は、よく言われる説明です。 ・「秀吉にほかの手はあったか」の部分は、動画としての考察です。 ・東海道の城主たちが家康についた理由は一人ひとり違います(家康との縁、三成との対立、秀吉の死後の判断など)。 ■ 出典・参考 ・国土交通省 関東地方整備局(江戸川河川事務所・利根川上流河川事務所)「利根川の東遷」 ・農林水産省 関東農政局「房総の歴史」 ・内閣府 防災「1657 明暦の江戸大火 報告書」第1章 ・東京都水道歴史館「江戸における上水の始まり」 ・掛川市 広報資料(山内一豊と掛川城) ・神奈川県立歴史博物館(後北条氏の解説)、小田原市 文化財資料 ・牛久市資料、静岡県立中央図書館資料(小田原攻め) ・福島県「県のすがた 近世」(奥州仕置・蒲生氏郷) ・佐賀県立名護屋城博物館 年報(名護屋城跡と陣跡) ・コトバンク(織田信雄・堀尾吉晴・本多忠勝・後北条氏) ■ 素材 ・地図:国土地理院(陰影起伏図・標高タイル・淡色地図)、国土数値情報(行政区域)を加工して作成 ・肖像:Wikimedia Commons(パブリックドメイン) ・写真:小田原城 663highland / Wikimedia Commons(CC BY 2.5) ・史料:「武州豊嶋郡江戸庄図」国立国会図書館所蔵(パブリックドメイン) ・音声:VOICEVOX:青山龍星

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