「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 ともと三好吉房 秀吉の姉夫妻が関白秀次ら三人の息子と孫たちを犠牲にして辿った仏門への道 History of JAPAN
尾張の農村で素朴に暮らしていた豊臣秀吉の長姉・ともと、馬貸しなどを営んでいた夫の弥助(のちの三好吉房)は、秀吉や秀長ら弟たちを支えながら、三人の男子を授かり幸福な日々を送っていた。しかし、秀吉の立身出世と天下統一の進展が、この家族の運命を大きく狂わせることになる。
血縁の後継者に乏しい秀吉は、甥たちを政略の駒として重用した。長男の秀次は名門・三好家の養子を経て関白へ登りつめ、次男の秀勝は織田信長の四男の名跡を継ぎ、三男の秀保は叔父・秀長の大和100万石を継承した。吉房自身も尾張犬山城10万石の大名となり、三位法印に任ぜられたが、武将としての器量よりは見事な顎髭を誇らしげに自慢するような、どこまでも純朴な農民気質の人物だった。
だが、栄華の頂点からの転落は一気に訪れた。文禄元年(1592年)に次男・秀勝が朝鮮の陣中で病没し、文禄4年(1595年)には三男・秀保が17歳で急死する。さらに同年、秀吉の実子・秀頼の誕生によって孤立した長男・秀次に謀反の嫌疑がかけられ、高野山で切腹に追い込まれた。秀吉の怒りは収まらず、三条河原で秀次の妻子ら39名が無残に公開処刑され、遺骸は「畜生塚」へと葬られた。吉房も連座して所領を没収され、讃岐国へ流罪となった。
愛する息子全員と多くの孫を一瞬で奪われたともは、血塗られた俗世を捨てて出家し、「日秀尼」となった。京都の嵯峨野に善正寺を、さらに後陽成天皇の勅許を得て格式高い門跡寺院・村雲瑞龍寺を建立し、一族の冥福を祈る日々を送った。秀吉の死後、赦免された吉房も帰京して出家し、夫婦で菩提を弔いながら慶長17年(1612年)に79歳で静かに世を去った。
日秀尼は大坂の陣による豊臣家の滅亡も見届け、寛永2年(1625年)に92歳の天寿を全うした。豊臣宗家は断絶したが、次男・秀勝と正室・江の間に生まれた娘・完子が公家の九条家へ嫁いだことで、その血脈は受け継がれ、大正天皇の后・貞明皇后を経て現代の皇室へと直系で繋がっている。権力の頂点と地獄の底を味わいながらも祈りに生きた二人の軌跡は、儚い戦国乱世における不屈の家族愛の証であるが・・
作曲 秋山裕和
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