「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 徳川家康の妻たち あさひと築山殿の正室と16人の子供を産んだ未亡人などと晩年の10代の側室たち History of JAPAN
天下人・徳川家康は生涯で16人もの子をもうけたが、正式な妻である「正室」はわずか2人しかいなかった。 最初の正室・築山殿は、天正7年(1579年)に嫡男・信康とともに自害・殺害に追い込まれた。従来の悪女説に対し、最新研究では同盟者・織田信長への忖度や、対武田戦略をめぐる徳川家中の路線対立が原因だったと指摘されている。7年後の天正14年(1586年)、空席だった正室の座に迎えられたのが、大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも描かれる豊臣秀吉・秀長の妹、あさひ(朝日姫)である。あさひは前夫と離縁させられ、44歳で45歳の家康に嫁いだ。弟・秀長が裏方で実務を整え、母・大政所の人質移動と組み合わせた「家族外交」によって家康は上洛した。あさひは「駿河御前」として丁重に扱われたが、孤独と重圧のなか48歳で病没し、以後、家康は正室を置かなかった。 一方、家康の「側室」の好みは人生の時期によって劇的に変化した。壮年期までの家康は、夫と死別・離別した「未亡人(後家)」ばかりを側室に迎えた。嫡男・信康を失った危機感から、すでに出産経験のある経産婦を選んで確実に跡継ぎを残すという徹底した合理主義によるものだった。第2代将軍・秀忠を産んだ西郷局は、読書による極度の近眼であり、盲目の女性を保護する慈善活動を行った優しき知性派であった。また、二児を抱えた未亡人だった阿茶局は陣中に同行し、大坂冬の陣の講和交渉で豊臣方から大坂城の堀の埋め立てを引き出すなど、最強の外交官として活躍した。 しかし、後継者が固まり天下を掌握した晩年、家康の好みは一転し、重責から解放されたことで本来の好みである「10代の若い女性」ばかりを側室に迎えるようになった。彼女たちもまた個性豊かであった。36歳差のお梶の方は「この世で一番うまいものも、一番まずいものも塩である」とサジ加減の真理を答えて家康を感服させた。35歳差のお万の方は熱心な日蓮宗信徒であり、師・日遠の処刑を止めるため「二人分の死装束」を縫って家康に迫り、ついに助命させた。そして56歳差の最後の側室・お六の方は、家康の死後に尼となり、日光東照宮の社前で息を引き取ったと伝わる。 自らの願望を優先して世継ぎ確保に失敗した秀吉に対し、状況に応じて未亡人と若い女性を選び分け、その才覚をも活かした家康の女性観こそが、徳川家に最後の勝利をもたらしたのであるが・・
作曲 秋山裕和
http://www.hmix.net/
#nhk大河ドラマ #豊臣兄弟 #徳川家康
コメント 読み込み中…