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「豊臣兄弟!」に学ぶ日本史 藤堂高虎の生涯 主家を7度も変えて変節漢といわれた男の最新研究の成果と本当の姿 佳久創が熱演 History of JAPAN

歴史JAPAN Kunibo25,731回視聴投稿日: 2026/09/29
藤堂高虎は弘治2年(1556)、近江の土豪の家に生まれた。見上げるような巨躯と武勇を誇ったが、若き日は浅井長政をはじめ主家を転々とし、出奔と浪人を繰り返す不遇の青年期を過ごした。無一文で三河吉田宿の餅屋に駆け込み、無銭飲食を許された上に路銀を恵まれた「出世の白餅」の逸話は、この困窮の時代を象徴している。 転機となったのは天正4年(1576)、羽柴秀吉の弟・豊臣秀長に300石で仕えたことである。秀長の器量に心服した高虎は各地の合戦で軍功を重ね、紀州征伐などを経て城持ち大名へと出世した。さらに和歌山城や赤木城の普請を通じて築城の才能を開花させ、政権屈指の実務官僚へと成長を遂げた。また、聚楽第における徳川家康の屋敷造営を差配したことで、家康からも深い信頼を得る契機となった。 天正19年(1591)に秀長が没し、後継の秀保も早世して大和豊臣家が断絶すると、高虎は主家への忠義から領地を捨てて高野山へ出家した。秀吉の命で還俗した後は、豊臣家の内紛を見据えて徳川家康に接近する。関ヶ原の戦いでは巧みな調略で東軍勝利に貢献し、伊予今治20万石を領有した。高虎は日本初の層塔型天守を誇る今治城を築いたほか、江戸城や伊賀上野城など幕府の天下普請を主導し、近世城郭の基準を創り上げた。 慶長20年(1615)の大坂夏の陣では先鋒として長宗我部軍と激突し、甚大な損害を出しながらも徳川への覚悟を証明した。家康の臨終に際しては「来世でも仕えたい」と即座に天台宗へ改宗し、家康も国家有事の一番槍を高虎に託す遺言を残した。 寛永7年(1630)、75歳で没した高虎の遺体は、頭から足先まで無数の弾傷や槍傷で覆われ、指や爪を失った満身創痍の姿であった。後世「主君を変えた変節漢」と揶揄されたが、近年の研究ではその実像が大きく見直されている。高虎は徳川の世になっても京都大徳寺大光院で秀長の法要を手厚く営み続け、秀保の実母への経済支援も生涯怠らなかった。秀長のもとで培った都市計画や築城技術は江戸幕府の統治システムの礎となり、高虎は終生受けた大恩を忘れず、乱世から平和の世を築き上げた名将であったが・・ 作曲 秋山裕和 http://www.hmix.net/ #nhk大河ドラマ #豊臣兄弟 #藤堂高虎

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