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五稜郭の捕虜は、35年後にロシア軍の大攻勢の前に立った|沙河会戦・花の梅沢旅団【日露戦争】

日本史再審49,761回視聴投稿日: 2026/11/05
1904年10月7日の夜、満洲の山あいの町・本渓湖。日本軍の戦線のいちばん東の端に、兵役をいったん終えた男たちを集めた後備兵の旅団がいました。司令部から「下がれ」という命令が届き、副官は「兵を下げるのは明日でいい」と進言します。しかし旅団長は、その夜のうちに旅団のすべてを下げました。翌日、ロシア軍の大部隊が、旅団のいた場所へ押し寄せます。 旅団長の名は梅沢道治。50歳。定年の前日に少将になったばかりの軍人で、35年前には旧幕府軍の側で箱館の戦いに加わり、15歳で捕虜となっていました。遼陽で敵を追えなかった日本軍は、およそ2倍のロシア軍が仕掛けた初めての大攻勢を、なぜ止めることができたのか。そして、なぜまた勝ちきれなかったのか。防衛研究所の史料、アジア歴史資料センターの電報、当時のタイムズ紙の分析、新発田の歩兵第16聯隊の兵士の日誌、当時の写真帖と地図で見直します。 ■この動画でわかること ・遼陽のあと、クロパトキンが攻めに転じた理由と「山で勝負を決める」計画 ・10月7日、守るか攻めるかを決めきれなかった満洲軍総司令部 ・仙台藩士の子・梅沢道治が、五稜郭の捕虜から近衛の旅団長になるまで ・後備兵とはどんな兵だったのか、近衛後備混成旅団という寄せ集めの旅団 ・副官・荒木貞夫の上申と「いくさには、においというものがある」 ・本渓湖の三日間 ― 「一歩も退かず」は正確ではない、タイムズ紙が書いたこと ・第2軍・第4軍の反撃と、田中勝蔵の日誌「実に愉快なり」 ・万宝山の山田支隊と、ふたたび足りなくなった砲弾 ・「沙河の対陣」から黒溝台、奉天へ ■チャプター 0:00 1904年10月7日の夜、本渓湖 1:33 第一章 追えなかったあとで 5:28 第二章 五稜郭の少年 10:10 第三章 突き出した右の端 13:42 第四章 本渓湖の三日間 17:45 第五章 反撃 22:02 第六章 万宝山と砲弾 25:30 結び においを知る男 ■関連動画 ・ひと月前の戦い ― 遼陽会戦「勝ったのに、追えなかった」(本チャンネル)    • 「勝ったのに、追えなかった」遼陽会戦|砲1門・月50発の誤算と首山堡の橘中佐【日露戦争】   ・沙河の対陣のあと、冬の西の端で ― 黒溝台(本チャンネル)    • 八甲田から還った大尉は、3年後の黒溝台で|「冬に攻勢はない」総司令部の誤算と第八師団...   ・田中勝蔵の日誌の続き、そして梅沢旅団のその後 ― 奉天会戦(本チャンネル)    • 奉天会戦、ロシア軍は「乃木」に動かされた|25万の日本軍が31万を退かせた理由【日露戦争】   ・同じころ南で続いていた戦い ― 旅順(本チャンネル)    • 「その命令書は使われなかった」児玉源太郎と二〇三高地、乃木希典の決断【日露戦争】   ・「濃霧は逆さに読めば無能」と罵られた提督 ― 蔚山沖海戦(本チャンネル)    • 「濃霧は逆さに読めば無能」と罵られた提督|上村彦之丞、蔚山沖で敵兵600人を救う【日...   ・「想像より弱かった」28センチ砲は本当に旅順艦隊を沈めたのか(姉妹チャンネル 兵器再審)    • 「想像より弱かった」28センチ砲は本当に旅順艦隊を沈めたのか【二十八糎榴弾砲・引揚戦...   ■参考文献・史料 ・防衛研究所 戦史研究センター史料室「史料のなかの軍人たち」梅沢道治 ・防衛研究所所蔵「沙河会戦ニ於ケル第一軍戦闘詳報」(戦役-日露戦役-205) ・アジア歴史資料センター(JACAR)日露戦争特別展II「沙河会戦」解説および史料(Ref. C09050700200, C09050705700, C09050705600, C09050705800, C06041192200, C06041193700) ・国立公文書館所蔵 The Times 記事の翻訳(時事新報)「露軍の誤算、日本軍の実際」「露国の失敗」「日本軍の失策」(1905年3月) ・『参戦二十将星 回顧卅年 日露大戦を語る 陸軍篇』(1935年) ・横山久幸「技術戦としての日露戦争」(防衛研究所、2004年) ・大谷正「ある予備役将校の日露戦争体験(二)」『専修人文論集』99号(2016年) ・佐藤和敏「征露日誌」紹介記事(陸上自衛隊 新発田駐屯地 広報誌「白壁」第9号・第10号) ・参謀本部編『明治卅七八年日露戦史』第4巻 ・Ian Hamilton, A Staff Officer's Scrap-Book during the Russo-Japanese War, Vol. II ・『日本人名大辞典』(講談社)梅沢道治 ※兵力・死傷者の数は資料によって異なります(日本軍の死傷 約2万、ロシア軍の死傷 約4万 など)。逸話には「〜と伝えられています」「〜とされます」と付けています。山田支隊の損害の日付は、アジア歴史資料センターの史料に合わせて10月16日としています(タイムズ紙の記事は17日)。 ■画像出典 ・国立国会図書館デジタルコレクション『日露戦役写真帖』(1905〜1906年)(パブリックドメイン) ・Réginald Kann 撮影の写真(1904年)、当時の絵はがき・錦絵・雑誌・書籍の挿絵、Ian Hamilton のスケッチ、肖像写真:いずれも Wikimedia Commons(パブリックドメイン) ・現在の五稜郭:MIKI Yoshihito, CC BY 2.0(Wikimedia Commons) ・現在の本渓:沈阳刘继鲁, CC BY 3.0(Wikimedia Commons) ・地図は Terrain Tiles(Mapzen / AWS Open Data)をもとに自作 ■音楽 BGM:OpenTracks(旧DOVA-SYNDROME) ハンニバル/哀しみの大地/カエサル~英雄、光をもたらす者~(田中芳典)、迫り来る軍靴の足音的なBGM(鷹尾まさき)、大河(伊藤ケイスケ)、鏡の森/聖戦(Heitaro Ashibe)、狼達の行軍(のる) 効果音:自作 ■この動画の作り方 ナレーションの原稿は、史料と研究書をもとに、このチャンネルが一から書いています。映像は、当時の写真・写真帖・絵はがき・錦絵(パブリックドメイン)と、自作の地図・図表・字幕で構成しています。ナレーションには音声合成を使用しています。誤りにお気づきの方は、出典とあわせてコメントでお知らせください。 #日露戦争 #沙河会戦 #梅沢道治

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