上杉謙信は、上杉の家に生まれていない|父が死に追いやった「上杉」の名を、なぜ継いだのか【上杉景勝・直江兼続まで 146年の勢力図】
上杉謙信は、上杉の家に生まれた人ではありません。勢力図で追う146年、長尾が「上杉」を名乗り、その名を米沢まで守るまで。
父の長尾為景は、上杉の当主を2人、死に追いやっています。その長尾が、なぜ上杉の名を継いだのか。謙信本人の手紙を手がかりに、川中島、関東、御館の乱、関ヶ原、そして関東の土地を一つも持たない米沢まで。
■ この動画でわかること
・長尾景虎(上杉謙信)は、なぜ上杉の名を継いだのか。憲政の病が治るまで旗を預かる、と本人が書いた手紙と、関東管領の上杉憲政
・山内上杉・扇谷上杉と、越後の上杉。享徳の乱から平井城を追われるまで、3つの上杉の色が地図から消えていく道筋
・川中島の一騎討ちは本当にあったのか。武田信玄との川中島の戦いの、当時の記録で確かめられることと『甲陽軍鑑』の話
・北条氏康との関東。勝った戦と、色が変わった土地は別。「義の武将」「敵に塩を送る」はどこから来た話か
・手取川で謙信は信長に勝ったのか。謙信の死因と御館の乱。名を譲った上杉憲政は、上杉景勝と上杉景虎の争いの中でどうなったのか
・魚津城の戦いと本能寺の変、羽柴秀吉に従った上杉景勝と直江兼続。会津百二十万石、直江状、長谷堂城の戦い
・関ヶ原の戦いのあと、取りつぶされずに米沢藩30万石になるまで、上杉は何をしたのか。謙信の亡骸と上杉神社、吉良の子と上杉鷹山
■ 目次
00:00 序章 長尾の生まれの上杉謙信|長尾景虎と上杉の名
01:51 第1章 越後の下剋上|長尾為景と上杉房能・上杉顕定
07:33 第2章 北条にのまれる上杉|北条氏綱と河越の戦い
13:00 第3章 景虎、越後を継ぐ|長尾景虎の家督と上杉憲政
17:01 第4章 信玄との川中島|武田信玄・村上義清と川中島の戦い
21:35 第5章 上杉の名を継ぐ|関東管領・関東幕注文・鶴岡八幡宮
27:09 第6章 第四次川中島|川中島の戦いと武田信繁
32:19 第7章 二つの戦場|上杉輝虎と北条氏康・武田信玄
36:01 第8章 来ると塗られ、去るとはがれる|上杉謙信の関東出兵と「敵に塩を送る」
41:27 第9章 敵と組み、西へ|越相同盟と手取川の戦い
48:17 第10章 二人の景虎の家|上杉謙信の死と御館の乱・上杉景勝
54:47 第11章 天下の端で|魚津城の戦い・新発田重家・羽柴秀吉
59:59 第12章 会津百二十万石|直江兼続と直江状・長谷堂城の戦い
1:03:54 第13章 米沢|米沢藩と上杉神社・上杉鷹山
■ 地図の見方
朱=長尾(1561年に上杉の名を継いでからは上杉) 濃い朱=直接治める土地 薄い朱=付いている国衆(1561年春の小田原の場面だけ、手を組んだ大名も) 斜線=奪い合い中
上杉の3家(山内上杉・扇谷上杉・越後の上杉)と、北条・武田・織田・伊達・最上・徳川などはそれぞれの家の色。御館の乱の景虎方も別の色 薄い墨=どの家にも付いていない国衆
右上の数字=上杉(長尾)の石高(米の取れ高)の目安。1598〜1601年の会津だけ、上杉家の記録の120万石に合わせています
■ 訂正(2026年10月16日)
地図の塗りに抜けがありました。上杉以外の家の土地のうち、次の所を塗っていません。
・遠江の今川(1517〜1568年)、尾張の織田(1584年まで。海部郡のほか)、三河の岡崎と今川の頃の三河、美濃の斎藤、越前の朝倉、近江の六角・浅井、伊勢
・南東北の伊達と最上の領地。1600〜1601年の右上の「伊達 2万石」は誤りで、このころの伊達政宗は約58万石です
・下野・常陸・信濃の北と東の国衆の土地(どの家にも付いていない土地も、薄い墨で塗るべき所でした)
右上の織田・最上の数字も、塗っていない土地の分だけ小さく出ています。ご指摘ありがとうございました
病が治るまで預かったはずの「上杉」の名は、上杉にとって得だったと思いますか? 重荷だったと思いますか? 戦国時代の日本史で、解説してほしい戦国武将や合戦も、コメントで教えてください。
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■ 地図・数字・史料・絵について
・年は和暦の年の西暦(暮れは翌年のことも)、月日は和暦。年齢は数え
・郡は明治〜大正の郡境で近似、1455年の関東・為景期の越後・越中新川郡は推定。薄い朱は付いた国衆(1561年春は同盟の家も)で領地でない
・石高は1598年の検地高を正保郷帳で郡に按分した目安。会津だけ上杉家の記録の120万石(91万9千・50万石の記録も)
・諸説: 為景の隠居と死の年、憲政の越後入りと最期・景虎方のわけ、龍若丸の最期、名を継いだ日、川中島の勝敗、跡継ぎ、手取川の規模、直江状、小山評定、家康を追わず残れたわけ、処分の日
・後世の話: 河越の8万と夜戦、小田原の10万とひと月、川中島の陣・霧・挟み撃ち・車懸り・一騎討ち・勘助の策、塩、義の武将像、1万両、トイレと大酒、落首、魚津の13人の自刃(署名は12名)
・名を継いだわけと手取川の千余人は謙信の言い分。上洛1553年は綸旨の写しと本願寺の日記から
・出兵17回は簗瀬大輔氏の数え方。人の売買の記事は読みが割れ、独身・女性説(昭和の作家)は史料無し
・能登・越中東端・東蒲原・庄内は前回と塗りが違う
・絵は生成AIの想像図(謙信に同時代の肖像は無い)。九曜巴は関東幕注文の長尾の幕紋から(越後は未確認)、頭巾は出家後だけ。語りは合成音声
・訳は独自(原文は上杉家文書の字)。景勝の改名は大日本史料で1575年(上杉家文書は1576年)、関東幕注文の年は未詳
■ 出典
地図: 国土地理院(地理院タイル・陰影起伏図)
情景の地形: 国土地理院の標高タイル(春日山・鎌倉・川中島・三国峠・魚津・米沢の絵は、標高から作った透視図をもとに描いた想像図)
郡境: 『歴史的行政区域データセットβ版』(CODH作成)doi:10.20676/00000447(国土交通省「国土数値情報(行政区域データ)」をもとにNIIが加工)
史料の札: 『大日本古文書 家わけ第十二 上杉家文書』(綸旨の写し 459号・足利義輝の手紙 1112号・関東幕注文 482号・近衛前嗣の手紙 1153号・北条氏康と氏政の手紙 564号・謙信の願文 623号・景勝の改名 1001・1002号・景勝の手紙 672号・豊臣秀吉の朱印状 863号)
語りで引いた手紙など: 『上杉家文書』1110・1111・1113号(将軍の許しと副状)・681・682号(武田勝頼の手紙・武田家臣の催促)・874号(直江兼続の手紙。年は内容からの比定)、『越佐史料』巻3〜6(高橋義彦編。1556年の景虎の手紙・1561年の政虎の誓いの紙と感状・近衛前嗣の手紙・1564年8月の輝虎の願いの文〔更科八幡宮〕と手紙〔大舘晴光あて〕・小田城の記事〔和光院和漢合運〕・景虎の手紙・魚津城の将たちの連名の手紙・景勝から佐竹義重への手紙ほか)、『史料綜覧』巻9・巻11・巻12、『大日本史料』第十編之二十八、『妙法寺記』(第四次川中島の日付と激戦)、『慶長三年大名帳』(続群書類従)、『上杉家記』・『上杉将士書上』(会津の石高)、島津家の家臣の手紙(『旧記雑録後編』。尾下成敏 2009 による)、木村徳衛『直江兼続伝』(1944)
語りで出どころとして名を挙げた本: 『甲陽軍鑑』(品第卅二)、『信長公記』(巻十)、『謙信公御年譜』(1696年)、『武将感状記』(1716年)、頼山陽『日本外史』(1827年)
謙信の亡骸と上杉神社: 米沢市「御廟所」、上杉神社「御由緒」
読み下しと現代語訳はこの動画によるものです(変体仮名は通行の仮名に)
BGM: (制作で入れる)
効果音: 効果音ラボ
#上杉謙信 #戦国時代 #日本史
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