李信はなぜ20万で楚に大敗したのか?!王翦が60万を求めた理由と楚の最期【春秋戦国時代】
楚はなぜ、趙・魏より後に滅んだのか。『史記』の原文と出土した竹簡の記録を、年表・地図・数字で検算しました。
秦は楚を攻めるのに、最初は20万で負け、次の60万で勝ちました。ところが、楚への攻撃は魏が滅びる前の年に始まっていました。楚は「後回しにされた」のではなく、「すぐには落ちなかった」のかもしれません。
物差しは四つ(楚の大きさ・都までの距離・攻められた年・落とし方)。李信の大敗が『秦始皇本紀』にも『楚世家』にも一度も出てこないこと、王翦が田畑を五度も願い出た理由、戦わずに楚を追い詰めた六十万、秦の兵士が家族に送った手紙、陳勝が最初に落とした町まで、史書に書いてあることと研究者の見方を分けてお伝えします。
▼目次
0:00 20万と60万
1:06 秦が滅ぼした順番
1:48 20万と60万の問答
2:42 李信の大敗(三日三晩・七人の将校)
3:39 王翦の出陣(田畑を五度願い出る)
5:25 王翦は、ほとんど戦わなかった
6:45 追撃と楚の滅亡
7:34 検算:四つの物差し
8:01 ① 楚の大きさ(蘇秦の言葉)
9:15 ② 都までの距離(燕の都は先に落ちた)
11:07 ③ 攻められた年(年表)
12:49 ④ 落とし方(金・水・兵)
14:17 兵の数(李信の自信と編年記)
15:17 答えの整理
16:16 楚の内側(哀王殺し・李信の名が本紀にない・新鄭の反乱)
18:38 楚のうらみ(懐王の死)
19:57 60万のひとりひとり(睡虎地の手紙)
21:45 答え、そして陳勝と項燕の孫
24:02 次回予告
▼関連する回
・李信 • 【キングダム】李信の史実|20万で楚に大敗した「信」のモデルは、なぜ再び戦えたのか
・王翦 • 【キングダム】王翦の史実|60万の大軍で楚を滅ぼした老将は、なぜ王に土地を5度ねだったのか
・始皇帝 • 始皇帝 壮絶な最期|死を隠すため、車列に"塩漬けの魚"を積ませた
▼この動画について
・場面の絵はAIで作った再構成です(実際の人物・場所の写真ではありません)。地図は国境・地名の位置を概略で描いています(陳勝の旗あげの大沢郷の位置も概略です)。語りはAI音声です。
・年は『史記』に書かれていない場合があります。李信の大敗の年(前225年)は『資治通鑑』の置き方です。楚王を捕らえた年は、『楚世家』『資治通鑑』は前223年、『秦始皇本紀』は前224年と書き、ずれます(どちらでも魏より後です)。
・咸陽から各都までの距離(km)と「楚は秦に次ぐ広さ」は、この動画で地図の上で測った概算です(史料の数字ではありません)。蘇秦の数字は遊説の言葉で、楚が滅ぶ百年あまり前のものです。
・年表の格子は、『史記』『資治通鑑』に秦軍の動きが書かれた年です。戦争の長さそのものではありません。
・本紀の「新鄭が背いた。昌平君を郢に移した」の「郢」は陳のことだとされます。李信の敗因(昌平君の背反説など)、黒夫と驚の戦った場所には諸説あります。「蒙恬」は「蒙武」の誤りとする説もあります。
・漫画『キングダム』やドラマ・ゲームの描写とは異なる部分があります(作品の絵は使っていません)。
▼主な出典
『史記』秦始皇本紀・白起王翦列伝・蘇秦列伝・楚世家・趙世家・魏世家・田敬仲完世家・廉頗藺相如列伝(附 李牧)・陳渉世家・項羽本紀(三家注を含む)/『資治通鑑』巻7/睡虎地秦簡『編年記』・睡虎地4号墓木牘(黒夫と驚の手紙)/辛徳勇「雲夢睡虎地秦人簡牘與李信、王翦南滅荊楚的地理進程」・田余慶「説張楚」ほか(原文:中国語ウィキソース)。
#楚 #王翦 #中国史
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