赤穂浪士の子どもたちのその後。切腹から6年、『伊豆大島へ流された4人』と、父の顔を知らない大石家の三男【日本史】
赤穂浪士の子どもたちのその後。切腹から6年、『伊豆大島へ流された4人』と、父の顔を知らない大石家の三男【日本史】
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、吉良邸に討ち入った赤穂浪士たちは、預けられた大名屋敷で切腹しました。忠臣蔵の物語は、たいていこの日で終わります。
けれど、浪士たちには子どもがいました。
幕府は、浪士の15歳以上の息子を伊豆大島へ流すと決めました。島へ渡った4人のうち、ひとりは帰ってきませんでした。大石内蔵助の家では、母と幼い子どもたちが但馬の豊岡へ移り、ひとりは出家し、ひとりは父の顔を知らないまま、父と同じ1500石で召し抱えられます。
今回は、赤穂浪士の遺児たちのその後を、辞典・自治体の資料をもとに、年の順にたどります。
📌 この動画でわかること
・討ち入りと切腹――元禄16年2月4日
・15歳という線――遺児への遠島の処分
・伊豆大島へ流された4人と、島で亡くなった間瀬定八
・首のない父の像を建てたと伝わる吉田伝内
・赦免のあとに出家した中村忠三郎と村松政右衛門
・大石家の子どもたち――豊岡へ戻った母りくと、くう・吉之進
・例外・大三郎――父と同じ1500石で広島へ
最後に、冒頭の3つの問いの答え合わせをします。高評価・チャンネル登録で応援していただけるとうれしいです。
泉岳寺や豊岡、伊豆大島など、ゆかりの地を訪ねたことはありますか? コメントで教えてください。
⏱ 目次
0:00 オープニング:切腹の日と、残された子どもたち
1:14 第1章 討ち入りと切腹|元禄16年2月4日
3:13 第2章 遠島の掟|15歳という線
4:47 第3章 伊豆大島|流人の暮らし
6:23 第4章 吉田伝内|首のない父の像
7:56 第5章 忠三郎と政右衛門|赦免のあと
9:42 第6章 大石家の子どもたち|豊岡へ
12:15 第7章 例外・大三郎|父と同じ1500石
14:39 第8章 寺坂吉右衛門|ひとり生き残った足軽
16:29 第9章 りく|子を見送った母
18:04 まとめ:答え合わせ
■ご注意
※年齢は数え年、日付は当時の暦(旧暦)です。浪士の切腹の日を2月2日とする辞典もありますが、本動画は2月4日としています。
※吉田伝内が父の首のない像を建てたという話は伝承です。間瀬定八の島での暮らしの描写、中村忠三郎・村松政右衛門の赦免後の様子は、後の時代の書物などによるものです。
※寺坂吉右衛門が引き揚げの途中で姿を消した理由には諸説あります。
※大石主税(良金)の錦絵は、芝居の役名「大星主税」として描かれた歌川国芳の作品です。討ち入りの錦絵は『仮名手本忠臣蔵』の場面を描いたもので、実際の様子とは異なります。
※伊豆大島・伊豆・但馬・安芸・京都の場面の絵は、雰囲気を伝えるための別の作品(イメージ)です。泉岳寺の墓の絵は1868年の作品です。
■主な参考資料
Wikipedia「赤穂事件」、Wikipedia「吉田兼亮」、Wikipedia「中村正辰」、Wikipedia「間瀬正明」、Wikipedia「村松秀直」、Wikipedia「大石良雄」、Wikipedia「大石良金」、Wikipedia「香林院」、Wikipedia「大石吉之進」、Wikipedia「大石くう」、Wikipedia「寺坂信行」、Wikipedia「浅野長広」、Wikipedia「伊豆大島」、コトバンク「赤穂事件」、豊岡市「広報とよおか」
■画像の出典
画像はWikimedia Commonsのパブリックドメイン作品(一部CC0)です:大石良雄像、歌川国芳「誠忠義士肖像 大星主税良金」「忠臣蔵夜討之図」、歌川広重「忠臣蔵」(引き揚げ・十一段目)「六十余州名所図会 但馬・安芸・伊豆」「東海道五十三次 京師」、歌川芳虎「義士肖像」、「赤穂城明渡し」(1920年)、土佐光起「徳川綱吉像」、桂昌院像、中村彝「大島風景」、「泉岳寺の四十七士の墓」(1868年)。
■ナレーション:VOICEVOX:青山龍星
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