関ヶ原で西軍の総大将だった毛利は、なぜ取りつぶされなかったのか|元就が三人の息子に書いた手紙と、安芸の山あいから中国地方へ広がった毛利の勢力図【毛利元就〜輝元 1523〜1600】
三本の矢は、毛利元就の手紙にはありません。勢力図で追う、毛利家の77年。
元就が三人の息子に本当に書いた手紙と、1600年に輝元・広家・秀秋が別々の場所にいた関ヶ原。西軍の総大将だった毛利は、なぜ残れたのか。元就の手紙は、当たったのか。
■ この動画でわかること
・三本の矢の話は本当か。元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三人に本当に書いた手紙には、何とあったのか
・安芸の国衆の一人だった毛利元就が、大内と尼子の間で付く先を変えながら、吉田郡山城から広がっていった道筋
・厳島の戦いで陶晴賢を破り、大内義隆の国だった周防・長門へ。よく言われる兵の数は本当か
・尼子の月山富田城は、尼子晴久の急死、和睦、寝返り、そして食べ物を断つ干し上げで崩れた。石見銀山は朝廷と幕府の土地にして、元就が管理を任された
・毛利輝元と両川の時代。織田信長と戦い、備中高松城で和睦したあと、信長の死を知っても、なぜ秀吉を追わなかったのか。国境の話し合いで安国寺恵瓊が書いた「戦になれば十に七つ八つは負ける」
・関ヶ原の戦いで、毛利輝元・吉川広家・小早川秀秋は別々の場所にいた。8か国が周防・長門の2か国になっても、なぜ毛利家は残れたのかを、9月14日の約束の宛先と10月10日までの日付で追う
■ 目次
00:00 序章 三本の矢と三人への手紙|三子教訓状と関ヶ原の毛利
01:34 第1章 安芸の国衆の一人|毛利元就の家督と郡山城の戦い
06:15 第2章 二つの川|吉川元春・小早川隆景と大寧寺の変
10:59 第3章 厳島と三人への手紙|厳島の戦いと陶晴賢・三子教訓状
16:16 第4章 尼子をのみこむ|尼子晴久・石見銀山・月山富田城
21:07 第5章 いちばん遠くまで|尼子再興軍と山中鹿介・元就の死
25:49 第6章 天下に近づく|織田信長・上月城・備中高松城
31:36 第7章 西国を任された家|中国国分・広島城・坂東と坂西
36:07 第8章 関ヶ原の三つの家|毛利輝元・吉川広家・小早川秀秋
41:29 第9章 残った家|天下を望むな・萩・長州藩
■ 地図の見方
朱=毛利(濃い朱=毛利が直接治める土地 薄い朱=毛利に付いている国衆や大名の土地 斜線=奪い合い中)
ほかの家はその家の色(大内・尼子・大友・浦上・宇喜多・三村・山名・織田・羽柴・徳川) 薄い墨=どの家にも付いていない国衆
右上の数字=石高(米の取れ高)の目安。吉川・小早川は毛利の一族として毛利の色で塗っています
■ 訂正(2026年10月19日)
22:33ごろ「6月、隠岐から、尼子の生き残りが、出雲の北の島根半島に上陸しました」と言っていますが、当時の尼子方の文書(1569年9月15日の日御碕神社文書)は「但馬から数百艘の舟で島根に着いた」と書いています。隠岐を経て上陸したという話は、江戸時代の軍記(『雲陽軍実記』『陰徳太平記』)によるものです
元就の手紙は、当たったと思いますか? 戦国時代の日本史で、解説してほしい武将や合戦も、コメントで教えてください。
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■ 地図と数字について
・年は和暦の年の西暦、月日は和暦(暮れは西暦で翌年のこともある)。年齢は数え
・右上の石高は1598年の検地高を正保郷帳の郡の比で按分した目安で、実測ではない。語りの石高は文書ごとの数で別
・郡山の3万・1万は元就の報告、厳島の2〜3万・4千は明治の本の数
・三本の矢は三子教訓状に無く、3人に3本の形は明治〜大正のもの。宮尾城の囮・能島の加勢・仇討ちは後の軍記などの見方。隆元の毒殺は1677年の『後太平記』から。高橋家の滅亡は1529・30年の2説
・宇喜多の離反は1579年6月ごろ、信長の承認は10月。九鬼の船の鉄張りは『多聞院日記』の伝聞
・「天下を望むな」と高松で追わなかった話は1601年の広家の覚書から。9月14日の約束は条件つき。「10月2日に領地没収」「広家が2国を回した」は『吉川家譜』だけ(偽文書説あり)
・銀3,652枚は1581年の帳面の数。空弁当・正月の問答(最古の本は1927年)・関ヶ原の恨みは言い伝え
・郡は1920年の郡境の近似。宇喜多・南条・山名・伊予は毛利方で塗り(異説あり)、1559年の備中・1574年の三村・1569〜72年の出雲伯耆隠岐・1559〜69年の豊前筑前は推定。安芸郡と備後南は厳島でまとめて塗り、国分の境は吉備郡ごと宇喜多側。門司城は残した説
・一文字に三つ星は元就の若いころの形が未確認。秀秋の違い鎌は陣羽織の模様。絵は生成AIの想像図、語りは合成音声
■ 出典
地図: 国土地理院(地理院タイル・陰影起伏図)
備中高松城の水攻めの絵: 国土地理院の標高タイルと岡山市教育委員会の発掘調査報告(2000・2008)をもとに地形を推定した想像図(堤の長さ・水の広がりは諸説)
郡境: 『歴史的行政区域データセットβ版』(CODH作成)doi:10.20676/00000447(国土交通省「国土数値情報(行政区域データ)」をもとにNIIが加工)
史料の札: 『大日本古文書 家わけ第八 毛利家文書』(三子教訓状 405号・家臣の起請文 402号・傘連判状 226号・厳島の前の元就の手紙 577号・秀吉の領知の書状 956号・知行の目録 957号・家康と輝元・隆景の起請文の前書の控え 958号・本多忠勝と井伊直政の起請文 1020号)、『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書』(家康の起請文の写し 914号・吉川広家の覚書 917号)
語りで引いた手紙など: 『毛利家文書』210(尼子詮久との兄弟の約束・写し)・286・336(和戦の覚え書き)・338・346(銀山の帳面)・399(井上の罪状書)・401(家臣の起請文)・420・579・660・661(隆元が引き止めた手紙と覚書)・859(3か国を求められた使者の報告・年は刊本の比定)・860(安国寺恵瓊)・864(曲直瀬道三の意見書)・955・980・981・1016・1017・1022〜1029(9月17日〜11月の書状と起請文)・1171(萩の相談)・1557(益田元祥の覚書・年の記載なし)号、『吉川家文書』489・491・609・1253(陶の打ち明け)・899(吉川経家)・913・1463(武田勝頼の書状の写し)号、『小早川家文書』531号、『萩藩閥閲録』145(陶の書状「猛悪無道」・河合 1984 所引)、『慶長三年大名帳』(120万5千石)、井野辺茂雄『幕末史の研究』(1927年)
読み下しと現代語訳はこの動画によるものです(変体仮名は通行の仮名に)
BGM: Will you still cry?(まんぼう二等兵・OpenTracks)
効果音: 効果音ラボ
#毛利元就 #戦国時代 #日本史
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