今川義元はなぜ砦を落とした日に討たれたのか|桶狭間を地形でたどる
永禄3年5月19日、桶狭間の戦い。朝、今川義元の軍は織田方の砦を二つ落とします(砦を落としたのは義元の軍で、義元本人ではありません)。その日のうちに、義元はなぜ討たれたのか。
義元を守って退く側に立ち、国土地理院の標高でつくった本物の地形の地図の上で、最期までの一日をたどります。地図は今の地形で、場所に諸説がある所は範囲で示します。
なぜ討たれたかには、記録から言えることと、記録では分からないことを分けて答えます。
■3つの分かれ道
①丘の義元:丘にとどまって構えるか、動くか
②寄せる信長:寄せる動きを、つかめたか
③退き方:囲んで退くか、戦い続けるか
■チャプター
0:00 冒頭
3:48 第1章 経緯
10:52 第2章 布陣と朝
17:47 第3章 当日
19:33 分かれ道① 丘の義元
25:16 分かれ道② 寄せる信長
30:31 分かれ道③ 退き方
30:58 第4章 敗走と最期
37:24 終章 その後・もしも
■言葉の使い分け
・記録=信長公記など、同時代に近い史料に書かれていること(「〜と書かれています」)
・伝承=後の軍記、史跡の案内、言い伝え(「〜と伝わります」)
・推定=研究者の説、今の地形からの計算(「〜と考えられます」)
信長公記の人数(義元を囲んだ三百騎・残った五十騎など)は「ほど」の付いたおおよその数です。
義元が休んだ「おけはざま山」の場所も、討たれた場所も、記録では決まっていません。地図では一点にせず、範囲で示しています。丘から見えたかどうかは、今の地形での計算による推定で、当時の景色そのものではありません。
■主な史料・参考
・『信長公記』首巻「今川義元討死之事」(太田牛一)。国立国会図書館デジタルコレクション『信長公記』巻之上(我自刊我本、1881年)の画像で原文を確かめました
・研究者の説(藤本正行、小和田哲男、小島廣次、大石泰史、黒田基樹、小川雄、藤田達生の各氏)は、主に二次資料の要約に拠っています
・後の時代の書物(甫庵信長記、甲陽軍鑑、三河物語)は、伝わる話として紹介しています
・名古屋市・豊明市の史跡の案内(桶狭間古戦場公園、国指定史跡 桶狭間古戦場伝説地)
・『日本戦史 桶狭間役』(参謀本部編、1899年)。明治の陸軍の戦史として紹介しています
・文化庁「国指定文化財等データベース」(桶狭間古戦場伝説地・大高城跡・丸根砦跡・鷲津砦跡)
■地図・絵・声
・地図:国土地理院の地理院タイル(色別標高図・陰影起伏図・標高タイル)を加工して作成。現代の地形です。見通しの計算にも同じ標高データを使っています
出典:国土地理院 https://maps.gsi.go.jp/development/ic...
・今の県境:出典 国土交通省 国土数値情報ダウンロードサイト「行政区域データ(N03・2025年版)」 https://nlftp.mlit.go.jp/ksj/gml/data... (CC BY 4.0)を当チャンネルが加工して作成/旧国の範囲は目安の模式(当チャンネル作図)
・絵:AI生成。人物の顔や陣のようすは想像で描いたもので、肖像や当時の記録の絵ではありません
・声:AI音声(Gemini TTS)
負け戦の地図では、源平から幕末までの合戦を、負けた側の分かれ道から、本物の地形の上でたどります。
#桶狭間の戦い #今川義元 #信長公記
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